子どもの感性

クイーンのボヘミアンラプソディを労働帰りの電車で聴いていて、ふと自分がこのサビ前のパートを聞くためだけに何回もこの曲を聴いていることに気付く。この曲の魅力がサビ前パートとオペラパート以降のコントラストにあることはなんとなくわかるんだけど、とにかく「mama〜〜!!!!!」を聴くためになんども聴いてしまう。このオペラパートありきで曲を聴いているからこそ、よりわたしのだいすきなサビ前がより輝いているんだけど、この曲について語るときはたぶんその背景を無視してしまう。そのような消費の仕方はなんというか子どもだなと感じる。

 

小さい頃から、どうなりたいかっていうことばっかり考えていたように思う。職業とかではなくて、どういう性格でどういう部屋に住んでいて、どういう生活をしているのか、ということばかり考えていた。たぶん、わたしにはいつも理想がある。そして、そのことばっかり考えていて、今この瞬間には全然注目していない。もしかしたら仏教について勉強するといいのかもしれない。そしたら今この瞬間に集中できるようになるのかもしれない。そしてすべての苦しみから解放されるのかもしれない。最近はやっと、理想を現実の世界に持ちこむための行動ができるようになった気がする。大学生の頃は、自分の行動と現実の変化の関係について、経験があまりにもなくてずっとうだうだ考えて終わるというのを繰り返していた。特に、人に対して気持ちを伝えたりアクションを起こすのは今も引き続き苦手である。あまりにも頭でうだうだ考えるのでストレージをクラウドに移す感覚で日記を書いたり、文章を人に読んでもらったりするようになった。