仕切り

 

朝起きたら泣いていた。バナナがたくさん実った木が庭に生えていて、それを母に揺らしてとってもらった。そしたら即、横にいた従姉妹がバナナをすべて回収したのだ。わたしは悔しくて泣いた。ひとつ分けてくれたけど、自分で拾いたかったのだ。誰かが拾ったあとのバナナでは納得できなかった。そこで目が覚めて、起きたら泣いてた。一体どういう深層心理なの。

 

 

わたしは働きたくないと思ったことがない。すごいことだ。「働きたくないマジで」「わかる」、この会話は実は反射神経だ。ごめんなさい。かつて、わたしは働くことによって生まれる生活の仕切りを愛していた。会社勤めにはバッハのような、一小節にきちんと音符が収まっている音楽みたいな仕切りがある。おつかれさまを言ったあとの表情が死んでいるのは、その時わたしはすでに仕事の仕切りの外側にいるから。労働、もうお前らに対しての時間は終了です。わたしはここで一分一秒も生きた自分を切り刻むことなく、立ち去るだけ。

 

でも今は真実に理解できる。働きたくないマジで。うつくしい人生や、自分にとってほんものの生きている時間について考える。そうなるともう、誰かが大昔に決めたお金とかいうルールはよくわからなくなる。たとえば今わたしは書道をやってみたいのだが、書道をやりたいことはわたしの生きている気持ちで、それを手に入れるためにお金という手段が存在する。そして、手段を手に入れるために時間を売る。そうなると生きている気持ちに対して割く時間はどんどん減り、自分が一体今なにをしているのかわからなくなってしまう。

 

わたしは生まれてから今まで、ずっと混乱している。自分がなにをしているのかわかったためしがない。わたしの書く文章はほとんど、今わたしはなにをしなにを感じているのか、自分への確認だ。文字というものへの感謝がとまらない。文字がなければわたしは気が狂っていたかもしれない。もうすこし大胆な性格だったら、頭をかち割って脳みそを見ようとしたりしたのかもしれない。

なぜまわりの素晴らしいひとたちが、自分のやっていることを理解し、落ち着いて人生を進めていけるのかがわからない。


たまに「自分の気持ちをどうしているのか」と質問をすることがある。たいていのひとは、少しもやもやして、そして忘れるそうだ。すごいことだと思う。朝起きて朝食を食べ、電車に乗り、作業をし、さらには誰かをなぐさめるためのレストランを予約したりする。そういう日々が三年、四年、五年、十年と同じ会社に勤める中で続いていく。その間、そのひとは混乱しない。すこしのぶれはありつつも仕切りの中で落ち着き、冷静に対処していく。

ただただ不思議でうつくしく、なにか意味が隠されているものについてだけ知りたいと思う。そして、そのような誰かの発見を愛する。でもそれは許されないような気がする。捨てるべき荷物を捨てるタイミングを見失ったまま、トートバッグやUNIQLOのワンピのポケットに隠して山手線に乗る。

 

作業と自分が一致しないと気が狂いそうになるくせに、自分のなにかできることでお金を稼ぐ自信が全くない。だからわたしは働きたくない。そういうことです。