自分ひとりの部屋

ゴールデンウイーク、なんとか有休消化率を上げたい弊社の方針から、連休に挟まった平日を強制有休消化日として指定してあるので今年は10連休だった。休みに休みまくった結果、労働への「やらなければならない」謎の使命感から解放され、無事人間に戻れた。二月の終わりくらいからほんとうに忙しく、三月四月は残業100時間は確実に超えており、働くのが嫌すぎて誰かにちょっとでも指の先でつんとされたら泣いちゃうとこだった。三月の一番忙しい山の週で、実家のわんこが死んでしまった。朝の三時にタクシーで実家に帰り、わんこをみて、そこからまた朝仕事に向かった。

 

それからもうほんとうに残業するのをやめようと思った、ていうか残業代の出ない残業時間てなんですか?自由時間なのでもう帰ります。とは言っても仕事が終わらないので夜10時までは確実に仕事をするのですが、そのかわり朝はやく行くのをやめました。馬鹿馬鹿しいので……朝10時に家を出ればいいので、そこまでの時間はわたしだけのものです。

 

わたしだけの時間があるというのがどれだけ必要だったのかようやくわかりました。二年前に結婚して、一年前から仕事が始まり、そこからはわたし一人の時間をなかなか作るのが難しかった。夫は出来るだけわたしといたいらしいので、休日は二人でテレビを観たり散歩をしたり、お出かけしたりします。わたしももちろん一緒にいたいし幸せな時間なのですが、平日は朝起きて仕事に行き、夜帰って寝るだけの生活なので、仕事が始まることによってそれまで平日に確保していたひとりの時間がほぼ消滅しました。

夫はわたしと興味のあるものが全然違います。夫の興味のあるものを観る時間もそれはそれで楽しい。好きになったものもいくつかあります。しかし、心ゆくまで時間を気にせず誰にも邪魔されず自分の好きなことをしたり、そのような世界について考える時間が欲しかった。

結婚する前まで共に生活していた実家の人間はそれぞれ単独プレイで各々好きなことをするタイプで、ご飯は一緒に食べて少しおしゃべりなどするものの、そのあとはまた各々……というふうに実に気ままだった。わたしは自分の時間をその頃通っていた学校の分野の勉強に費やしたり、一日5本程映画を観て考察を書いたり、自分の気持ちを整理するための文章を書いたり、そのようなことに大半の時間を費やしていました。ほとんどテレビは見なかったし、昼寝をしたり、今みたいに日常的に外食をしたりすることもほとんどなかった。生活の時間の使い方がまるきり変わってしまった。

以前の自分ひとりの時間がわたしの精神安定剤だったようなのです。健康なとき、なぜ自分が健康なのか人は気にも留めませんが、不具合が発生したとたんあちこち見回して確認するのはなぜなんだ。ヴァージニアウルフで言う「自分ひとりの部屋」が、完全になくなったとは言わないが面積がかなりせまくなってしまったのです。

 

毎日が本当に楽しくなかった。なんのために長時間生活のほとんどをささげて誰かが必要なことをしなければならないのか(わたしの必要はわたしですら満たせていないのに)。でも去年はそれに抗う元気が残っていなかった。考えるのがめんどくさく、自分が今どのような状態なのか俯瞰で見るのが非常に難しかった。ただ、植物に水をやるように、休みをたっぷり取ると脳にシワがギュッと戻り(それでもなんだか自分がとても馬鹿に思えて仕方ない。考えるのがめんどくさい、わからないことを追求できない)、手元しか見られなかった視界が半径5メートルくらいまで広がったような感覚。音楽がたのしい、本がさくさく読める。新しいことをはじめたい元気が戻ってきた。

 

この状態をできるだけ維持するために、なるべく働かないことを決意した。個人的なサステナビリティを守るために朝の無駄な残業はしない、もちろん夜も。あれだけやってみたかった仕事なのにすこしさみしいけど、わたしにとって大切なのは仕事や、仕事内容ではない(しかし本当に大切なものはわからない。もう少し生きてみないとわからないのかも)ことや、思ったより余暇の優先順位が高いこと、そして薄々わかっていたけれどひとりでいる時間とても大切なことがはっきり認識された。仕事人間に憧れた、目の前のものに夢中になって何もかも振り切れる人に憧れがずっとあった。でもわたしには仕事以外に捨ててしまうにはあまりに大切なものがいくつかあり、それはこの仕事を目指す間に起きた結婚や家族の死が大きく関わっている。すべてを捧げてみて考えようと思っていた矢先に、あれだけ働いた父が完全介護で家にいたいと願ったことや、自分で選んだひとと生活をつくったり、持ち物が多くなってしまった。

いまの自分にとっての大切なものの中に、夫や夫と作る生活の時間があるのはわかっていたが、氷山の水面下にはド広い「自分ひとりの部屋」がそれを支えている、この文章を書く時間を含む。今回は水中に潜って宝探しをしたような、そんなゴールデンウイークだったのかも。