ピンクのゲロを吐く

 

わたしはピンクを選べない子どもだった。お母さんの選ぶちいさな花が散らしてあるコーデュロイのワンピースはとてもかわいくて、だから着られなかった。

 

さらに、わたしは小さい頃から「イケメン」の概念がよくわからなかった。流石にいま「イケメン」 という言葉がどのような容姿を指すのか、理屈としてはなんとなくわかっているつもりだが、感覚で掴みきれている気はしない。 人間のもつ美を男性専用のもの、女性専用のもの、で分けることができないからだ。美しいひとがいれば、そのひとはたからものだが、それがそのひとの性別と結びついているわけではない。美しさはそのひとだけのもちものだ。そしてわたしに許されているのはそれをただ見つめるだけ、その美しさについて考え語るだけ、絵を描いたり、音楽を作ったりするひともいると思う。でも美しさの分類を決定することはできないし、しようとしてはいけない(でも、曲線に女性を連想するのは女性だけが持っているボディラインだし、直線は男性を連想させる それはそう考えるよう訓練されているからそう思うのかどうかはわからない、考える必要がある)。
さいころ、女性が思う男性に許されているかっこよさや美しさのようなものがよくわからなかったのはその頃言語化できなかったこの感覚があったからなのだと思う、もっと言えば男性が許す女性の美しさの範囲をよくわかっていなかったし、それと同時にそのような規範があることは感じていて、その居心地の悪さからわたしはそのすてきなワンピースをなんとなく避けていた。

母はわたしに女の子らしい感覚を持った女性に育つような環境(リカちゃん人形、おままごとセット、赤いランドセル)をきちんと用意してくれていたし、事実そのように素直に育った。
普段は女としての自分というのはあまり意識していないが表現物によって自分が可視化されたとき、つくるものや文章、そもそも感覚や考え方がどうしようもなく女だと認めざるを得ない。男の人がつくる女っぽいデザインはとてもすきだ。たとえばキギの植原亮輔さんのような、完全無欠の甘さ。男性がつくる女らしさはきちんと不純物を取り除いておいしく食べられるように加工されたものだ。でもわたしのは、今殺したばかりのほやほやの女の死骸、ほんものなのは間違いないが、血でべとべとだし臭いはけしていいとは言えないだろう。洗練されればこのような気持ちにならずにすむのかな。