生活がある

最近のマイブームは自分の出すゴミを記録することだ。ゴミはわたしの生活を勝手にべらべら喋ってしまう。ゴミはかなり饒舌なので、捨てたゴミでわたしがどんな生活をしているのかおおよそわかると思う。わたしは実家暮らしで大抵家からごはんを持っていくのでゴミの総量(わたしが直接捨てる量)はそこまでではないが、お弁当や水筒を忘れたときのゴミの量はすさまじい。コンビニの加工食品の包装は言葉のニュアンスで表すなら、重い。あまりにも重なっているし、捨てたあとの処理コストの重さでもある。たとえば500mlのペットボトルのお茶と冷やし中華を買ったとして、ゴミとして捨てるのは下記になる。

・ペットボトル本体
・ラベルのビニール
冷やし中華の麺のケース
冷やし中華の具材の乗ったトレー
冷やし中華の麺の上に乗っているビニール
冷やし中華のタレの入ったビニール
からしの入ったビニール
・わりばし
・レジ袋

さらに日本のコンビニ店員は親切なので、おしぼりもつけてくれているかもしれない。そしたらそのおしぼりが包まれているビニールとおしぼり本体もゴミになる。

わたしは、このようなゴミを一瞬でも所有していたことが許せない。それは、常に身軽でありたいという、小学生の頃から続いているどこから来たのかわからない願望と、たいして興味のないものにコスト(特にお金)を支払いたくないという2つに由来するものだと思う。
身軽でありたい願望はまた今度にするとして、どさくさにまぎれて金を払いゴミを買っているというのが美しくないから気に食わない。お金を出してモノをわずかな間でも人生に迎え入れる作業を、わたしは長い間ずいぶんおざなりにしてきた。とにかく自分のフィーリングが即満たされることが大切だったので、ばかみたいにお酒を飲んだり、お洋服を買ったり、コンビニで夜中にアイスを食べたりしていた。でも今は、結局自分がなにを選んでいるのか、きちんと度をあわせためがねをかけてしっかり見たい。書いた人の思想を所有するために本を買い、ペットボトルのほとんどがリサイクルされずどこかに置き去りになることを考えながら、のどの渇きを癒すため150円を自動販売機に放り込む、所有したものがなんであれ所有した瞬間から地続きの自分なのだ。
必要なものと人生に迎え入れたいものはイコールではない。わたしはわたしの賛同するものにコストを支払うために、必要なだけのものにはなるべく労力をかけたくない。必要なだけのものを所有するためのお金、場所、使用する時間をなるべく使いたくない。人生は結局24時間刻みの日常が連続したものだと考えると、すべては生活にかかっている。起きて食って仕事してセックスして寝るまでの間に、泣いちゃうくらい美しい音楽や、誰かの印象的な視線や、人類の歴史、夢見、宗教、思想がある。なにをしたいかとなにをしているかがすぐにばらばらになってしまう、その連続で気が狂いそうになる。すべてを把握するのはとてもむずかしいことだけれど、うつくしい人生をつくることをあきらめたくない。