気になる人

【本当においしいもの、初見は何が何だかわからないうちに食べ終わる説】

本当においしいと感じているときは「一体これはなんなんだ………?もう少し食べ進めてみよう………」と思っているうちに食べ終わってる、という説です。代表的な例としては、白子やあん肝などがわかりやすいかと思います。一度で口に入れる量が少ない上に、その絶妙な風味は「これはどういうジャンルに属する味なんだろう………?」と考えている間に終わる。そして、「よくわからなかったのでもう一回」食べてみて、やっとおいしいという感情にたどり着く。あの体験はほんとうにおもしろいものです。わたしはそういう食べ物に出会ったとき「人間が記憶を持つのは言葉を喋れるようになってから」という脳の発達に思いを馳せます。認識したとしても言葉のラベルわけが出来ていない、もしくはラベルが存在しない体験について、人は感情を持つまでに至らないのです。感情って、人間に本来備わった機能ではなくて、とても文化的なものなのだと思います。文化を持たない人は涙が出たとしてもそれがどういう感情なのだかわからないと思うので。

また、おそらくですが「これは一体どういった味なのだろう」となるほとんどの食べ物が旨味で構成されているのではないでしょうか。日本人が発見したと言われる旨味、海外でももちろん「これなんなんだろ、なんかうめ〜」と思いながら食されていたと思います。しかし、それは独立しておらず、甘み・辛み・酸味・苦味のあとに広がるオーラ的な、ぼんやりしたなにかとして捉えられていたのではないでしょうか。旨味は主体としての味ではなく、横幅、奥行き的な位置付けだったのではないか。そう考えると名前をつけることではじめて存在するもの、という現象ってかなりおもしろいですね。存在ために、わたしたちが名前をつけたり、言葉で整理しないと見えないものがたくさんあります。現象としてはすでに存在するのに、名前がないとわからないというのは、体調が悪くなってから健康を持っていたことに気付く、みたいなのと近い気がします。身体が先にわかっていて言葉や感情が後からついてくる現象って、奇跡の感覚に近い衝撃があってかなりすきです。