友だち

 

友だちが結婚した。というより、毎年友だちが結婚しまくっている。同じサークルだった友だちがひとり、また結婚した。どうやら近所に住んでいるらしいと、SNSを通じて知った。そして昨日、彼女の結婚式があったらしい。当時同じサークルの同期だった女の子が何人か出席していた。わたしは招待されていなかった。少しだけ、寂しいような気持ちになったが誘われていたら誘われていたで困っていたと思う。サークルには正直いい思い出はほぼない。飲み会が楽しかった記憶もない。わたしが大学時代、夢中になったのはあるひとりの男の子と文章を書くこと、写真を撮ることの三つだけだったように思う。もちろん大切な友だちもいて、今も仲良しだけれど、サークルの中にはそのような感情はなかった。

サークルの空気が嫌だった。付属の男子校から上がってきた声の大きい男子生徒が自分たちの価値観でサークルを支配しているのが本当に嫌で仕方なかった。その中で女子は片隅に収まり、いわゆる華として振る舞うのが一番スムーズな方法だった。当時のわたしにはそれらに対する感情を言語化できるほどの知識がなかった。わたしの感じていたものがフェミニズムの一端であることや家父長的価値観への嫌悪であることを知らなかった。それを知ったのは大学を卒業してから二年後、フェミニズムに関する本を数冊読んでからだ。すべてが腑に落ち、そのとき初めてわたしはあのサークルの人たちが嫌いだったことに気づいた。そもそも嫌いだったこともわかっていなかった。学校から卒業して就職し、その就職先をやめて、ようやく気付いたのだ。気付いたとき、当時嫌いだったひと達はもう交友関係の範囲内には誰一人おらず、SNSでうっすら繋がっているだけだった。

 

誰かを嫌いだということに気付けない(というか、認めたくない)のはわたしがフェミニズムを知らなかった点とはまた別の問題だ。性格的なものだと思うけれど、あまり人間関係に労力をかけたくないというか、自分から誰かを誘うなんてことは滅多になく、人間関係において自分からアクションを起こすことがほぼないのは人間関係に対しての体力があまりないからなのだと思う。故に環境が変わると人間関係ががらりと変わってしまう。エスカレーター式の大学に行って本当によかったと思う。そのおかげで今も連絡の取れる友達がいる。たぶん大学受験をしていたらほとんどの人と関係は切れていただろうと思う。

人間の気持ちがどのように動くのかについては人より興味がある自負はある。大学生のとき、小説はその一環として書いていた。もちろん登場人物は当人の考え方に沿って行動するので、その人物をコントロールしきれないところもあり、苦労もしたがとてもおもしろかった。おそらく、人間には興味があるが人間関係には興味がない。

そもそも自分の感情についてあまり理解していないというのも大きい。mbtiやストレングスファインダー、エニアグラム、ビッグファイブ、西洋占星術など、あらゆる自己診断や有料の診断を受けたりしている。内から見た自分がわからないので、外から見た自分で自分を理解しようとしている。だから、わたしには明確な自分らしさ、みたいなものはあまりわからない。時と場合にもよる。わたしは読んでいる本の文章に書き方が似てしまう傾向がある。それは対面でも同じで雰囲気に染まりやすいのと、どうやら相手のムードをコピーしてしまうらしい。一緒にいる人がイライラしていると、こっちもイライラしてしまう。もしかしたら、このコピー性質が自分の想像以上にエネルギーを使っている原因なのかもしれない。しかも、わたしは人間関係にエネルギーを使っている事実を実感としてまだ理解していない。すべてが無意識下で行われていて、意識上は人といるのもおもしろいし一人でいるのもだいすきだと思っている。でも事実としてあまり積極的に誰かと過ごそうとは思わない。具体的な頻度として、半年に一回くらい、あの人に会いたいなと思うこともあるが、そこから連絡をとるかは別である。親や兄弟、夫がいなくなって、いつか本当に一人になったとき、わたしは孤独死するのではなかろうかとたまに思う。

 

小学生の頃「友だちの中でランキングをつけてよ」と言われることがあった。女の子はみんなそうなのだろうか。わたしはその頃から明確に好きの度合いを測れるほど友だちを区別していなかったように思う。というか「友だち」というステージは国立公園のような施設で、公序良俗に反しない限り誰でも入れる場所である。そのデカい公園の中に小さい家があり、プライベートであるその家に入るための鍵を渡す基準が厳しい。だから区分けをしているけれどナンバリングしていない。結婚式がなんで嫌かって、そんなものにお金をかけてもしょーもないと思っている(あんまり誰にも言えない)のはもちろん、友だちを選ばなきゃいけない苦痛がある。誰と会いたいか主体的に選ぶのが苦痛すぎる。もしかしたら相手の時間に対して責任を取れるか考えてしまうのもあるかもしれない。

まあ公園にはいつだって誰だってウェルカムなのだが例えば休日時間を割いて誰かと会うとなると話は別で、誘われたら行くのだけれど自分からは滅多に誘わない。小さな私の家の鍵を開けることに対して無意識下でものすごく警戒心があるので、家に入れるのは本当に気を許せたひと(夫など)と無理矢理入ってくるずうずうしさを持ち合わせたひと(そういう人はありがたい)くらいしか入れられない。そしてずうずうしさを待ち合わせているひとへの憧れが常にある。オチなし!

 

 

 

☆☆☆

 

 

SNSで繋がっていない人のほうが、なんとなく記憶として深く刻まれているような気もする。そしてロマンチックだ。「百万円と苦虫女」の鈴が家族に手紙を書いたり、恋人に公衆電話で連絡しているところを見てうっとりする。わたしに高校以前の友だちというのはほとんどいないが、たまに思い出して懐かしく会いたいと思うのは、ほとんどSNSで繋がっていない人だ。実際、そんな勇気もパワーもないのだけど。

 

夫紹介の美容室に行って、久しぶりに映画や音楽やなんていうかカルチャーの話をしておもしろかった。おそらくわたしは一生サブカル女なんだと思う。渋谷でフラワーデモがやっていた。新しい髪型とパーマのにおい。